前代表社員長崎真人自分史
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 【第一部】第三話「母子とも危ふく命拾い 真人の誕生秘話」(
 
第三話
 戸籍謄本によると、私の出生地は「台湾台北州七星郡汐止街保長坑渓洲寮九番地」となっています。台北から基隆(キールン、台湾北端の港町)に向かう縦貫鉄道で台北から四つ目(約20キロ)、基隆からは三つ目(約10キロ)の駅が五堵。その五堵駅の近くに父の教員宿舎がありました。
 陣痛が始まったと言う知らせで、父は急遽学校から帰り、自転車で松山(台北の一つ手前の駅・台北飛行場があった)まで産婆さんを迎えに走りました。当時は、普通の出産では入院する事などなく、殆ど産婆さんが自宅で取上げました。
  また、今なら、電話で救急車を呼んでと言う事になるはずですが、電話も救急車もタクシーもない時代です。
 父が産婆さんを自転車の後ろの荷台に乗せて戻ってきた時には、すでに破水して出産が始まっていました。父が急いでお湯を沸かしていると、「旦那さん、早く来て」と産婆さんが呼ぶ。行って見ると、頭は出たが肩が引っ掛かって出ない。このままでは、母子共に危ないと言う。産婆さんが母親の体を抑え、父親が生まれて来る子供の頭を持って引っ張るのだが、なにせヌルヌルしていて力が入らない。必死の思いでようやく引っ張り出したら、「オギャア」とでかい声で産声を上げた。「いや全くどうなるかと思ったよ」と言うのは、後日の父の懐旧談でした。子供としては3人目でしたが、台湾に来てからは初めての出産。父24歳、母23歳の時でした。
 1貫2百匁(4500g)あったそうです。昭和2年(1927年)12月18日。