前代表社員長崎真人自分史
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第一部】第十一話 戦雲の下、忽ちにして一家離散(
 

台湾は、その豊富な電力を用いてアルミニュームを精錬した上で内地の工場に輸送するのに、絶好な位置にありました。高雄と花蓮港に急遽アルミ工場を建設したのは、太平洋戦争を遂行する極めて重要な国策に添ったものでした。
「援蒋ルート」と言うのは、当時、四川省重慶に追い詰められていた蒋介石の国民党政権を支援するために、英米両国がビルマ(現ミャンマー)あるいは仏印と中国との国境の山岳地帯に道路を建設し、軍需物資を輸送していた、そのルートを日本側でそう呼んでいたものです。
泥沼になっていた中国での侵略戦争を打開するためには、この「援蒋ルート」を叩かなければならなかったのです。仏印進駐は、これはもう、連合国相手の引き返す事のできない破滅的な戦争への第一歩でした。
台湾はこうして、日本軍の南方作戦の基地として、最重要な使命を担う事になっていきました。

 
夏休みに入ると、一家も、父の後を追って慌しく花蓮港に引越す事になりました。しかし、この4月台北市郊外の国民学校に就職したばかりの姉と、台北一中三年在学中の私は、学年中途で転校することが出来ず、ふたりだけ台北に残る事になりました。姉は17歳、私は14歳でした。