前代表社員長崎真人自分史
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第一部】第五話「台湾芝居と爆竹と豚の丸蒸し/台湾の豊かさの根源」(
 
 第二に、台湾開発の成果を、一概に日本の植民地経営の功績と言う事はできないと言う事。

 領台前の台湾は、決して全く未開の僻地ではありませんでした。むしろ、台湾は全中国で最も豊かな近代化の進んだ地域となっていました。山地を除く耕地の大部分の開発も進んでいましたし、港湾、鉄道、電信等の基盤整備も進められつつありました。

 歴史的に見れば、1840年のアヘン戦争を経て1858年の天津条約によって、台湾の安平・淡水・高雄・基隆の4港が開港されたのは、日本が、ぺリー来航で、1854年日米和親条約、1858年、米・英・仏・露等と修好通商条約を結んだのとほとんど同時期の事でした。

 
 これ以降、清朝も従来の海禁(鎖国政策:台湾への渡航制限)を解き、台湾の防衛と開発を重視する政策を打出しました。

 移民は一挙に増加し、急速に開発が進められました。

 日本の領台時には、北端の基隆から中部の新竹まで鉄道が走っていたと言う事を、恥ずかしながら私は最近まで知りませんでした。これは、日本で新橋=横浜間の鉄道開通“汽笛一声新橋をはや吾が汽車は離れたり”の歌に遅れる事わずか15年後の事。電信電話、中国本土との海底電線もすでに開通していました。