前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第六話 レッドパージの嵐の中で()
 
門扉を押し開けて構内デモ
 石川島造船所は、今を遡る150余年前、1853年(嘉永6年)ペリー来航の直後、水戸藩の提言で我が国初めての洋式船舶造船所として建立されたのに由来する。隅田川河口の埋立地に位置した。今は、埋立地がはるかに拡げられ、高速道路が走り高層ビルが林立して「大川端リバーシティ」と呼ばれる最先端のモダンな街区となっていて、当時の面影は全くない。
 月島に機械製造の第一工場、豊洲に造船部門の第二工場と艤装部門の第三工場があって、当時3千名を超える労働者が働いていたと記憶する。

 この石川島造船所の活動家たちにパージが通告されたのは、9月半ば、即刻出入り禁止となったが、2週間ほどは仲間に守られて出勤し職場を離れなかった。
 
 会社は、この「入門闘争」に対抗して、守衛を増やし、出勤時に門扉を閉ざして脇の狭い通用門から少人数づつ入れる事にした。はじめはそれでも仲間に守られて突破したが、間もなく入門できなくなった。
 このまま職場から孤立してはまずい。実力でも中へ入らなければと言う事になり、外部からの応援を得る事になった。
 10月はじめのその日、私も民青の仲間数人と共に応援に駆けつけた。地区内の他労組のメンバーも含め総数50名ほど。
 例によって狭い通用門から千名近い労働者がようやく入った後に、パージ組と応援部隊が残される事になるかと思う瞬間、通用門脇の守衛所のガラス窓をサッと明けて、パージ組のひとりが守衛所に飛び込んだ。驚く守衛どもを尻目に正面の門扉の閂を開ける。同時に応援部隊がどっと押し入る。