前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第十ニ話 ビキニの水爆実験に抗議(・8)
 
「六全協」の矛盾・混迷を抱えながら
 一面、当時の党と民青は、「六全協」(1955年7月の日本共産党第六回全国協議会)後の組織的混乱を背後に抱えていた。私自身、深刻な思想的混迷、生活苦にも陥っていたが、数年来の大衆的な運動の結節点の位置にあるこの場の責任を逃れる事はできなかった。
 最後まで参加希望を表明しなかった私だったが、苦慮した末に「それでは社会党系から1名、民青から私が加わる」と発言した。議事は忽ちまとまって、横須賀市職の青年部長と民青代表の私の2名を県代表に選ぶ事に決した。
 
 この一部始終を私は民青団の組織に報告し承認を求めたが、組織の反応は今ひとつ盛り上がりに欠けるものだった。

 とにもかくにも私は、こうして戦後初めて合法的に海外の集会に参加する日本代表の一員として、モスクワに旅立つ事になった。このモスクワ祭典参加の詳しい報告は、次回に述べたい。
 また、県民青がこの時期急速に組織を拡大した背後に、「県民青幹部学校」を軸にした学習活動の積み重ねがあった点も記録すべき事項だと思うが、これも次回とします。