前代表社員長崎真人自分史
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第四部】第十話 続けて父と母を亡くす()
 
 これはもう奇跡としか言うほかなかった。花の下に座って空を見上げた母が、幼女の表情で突然「桜さくら」を歌いだした。それも最初から最後まで歌い通した。失語症で全く言葉を発しなかった母がだ。
 父は、失語症の母に何とか言葉を取り戻させたくて、童謡のテープを買ってきて聞かせ、一緒に歌った。母は、さっぱり乗ってこなかったが、父は懸命だった。その懸命の祈りがあっての事だと思う。奇跡は突然に起きた。
背に負うた 母が歌いし          さくら サクラ
 
 その秋、母は静かに往った。
 父は、最後の最後まで童謡を歌い続けた。
こときれて 冷えゆく妻の枕辺に            子守唄 童謡 涙の低唱
 父が、何時どんな折に裾絵を画いたのか知らなかったが、出棺の少し前に奥から出してきて、母にそっと着せてやった古びた晴れ着。それは二人だけの想いがこもった、何よりも貴い衣装だったのだろう。
わが画きし 裾絵の晴れ着 身にまとい          妻よ  天国の花嫁となれ