前代表社員長崎真人自分史
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第一部】第八話 最初で最後の兄弟喧嘩/家父長制が支配した時代(
 
第7話 新潟の田舎へひとり里子にやられて1年余
 1年余の村松での生活を終えて、5年生の2学期、旭小学校に戻って来ました。
懐かしい学校に行ってみると、期待に相違して、親しかった友達は何となく他人行儀、馴染んでいた筈の校舎も校庭も居場所がなく、浦島太郎の気分でした。
 旭小学校は、今言うところの「進学校」で、5年2学期ともなれば、猛烈な受験勉強が始まっていました。
 担任の中村先生は、オリンピックの3段跳びの選手だったと言う、しなやかな長身と色黒剽悍な面玉の持ち主で、短くした竹刀を常時手にして、ビシビシと叩き込むスパルタ教育。毎日、手に余るほどの宿題のプリントをもたされ、内地の田舎町でのんびりと過ごしてきた私には、付いて行くのがやっとでした。
 
 家では、兄・姉・私の3人が一緒で3畳の小部屋を勉強部屋にしていて、私には机も椅子もなかったので、畳に寝そべって勉強するほかありませんでした。
四つ違いの兄は、高校受験の準備で、本人も両親もピリピリしていました。幼時から、兄に対しては、父は密着するようにして、学業でも体育でも、後年、兄がこぼし話を繰り返すほどの熱の入れようでした。当然のように、台北一中から台北高校へのエリートコースを目指していました。
 次男坊の私は、両親から一度も「勉強しろ」と言われた事はない。上級学校も中学校ではなく工業学校か商業学校に行けば良いと申し渡されていました。
買い物のお使いだとか台所の手伝いだとか、母は、使いやすいと見えて、ほとんど私に言いつけるのが常でしたが、風呂焚きだけは、兄と私が1週間交代の当番制でした。