前代表社員長崎真人自分史
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第一部】第七話 新潟の田舎へひとり里子にやられて1年余/村松藩「長崎」の先祖(
 
 お城が火に包まれる前に、藩の主だった武士たちは、あるいは藩主にあるいは若殿に同行し去就を決していたが、下級藩士の長崎の当代は、指揮系統が崩れてなす術もなくウロウロしていた中で、越後の女のド根性であろう、気丈な長崎の女房ひとり焼け落ちる藩の倉庫に駆けつけ、米俵1表を担いで持ってきたと言う。これが親族一同の急場の飢えを凌ぐ便となったと言い伝えられている。

 「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、一族は典型的な貧乏氏族の運命を辿り、見る影もない有様であった。縁先に駄菓子を並べて売ったり、お茶の栽培に手を出したり、廃藩置県の際、旧士族に与えられた公債を出資して、銀行設立に加わったりしたが、いずれも旨く行かなかった。
 
 
最後は、菩提寺の安楽寺の檀家総代として本堂再建の采配を取った際に、落ちてきた梁の下敷きになって重傷、戸板で新潟に運ばれる途中、朗々と謡曲を謡いながら落命したと。その使用した宝生流の手本は、今、私の手元にある。

 先々代・長崎信吉は養子。文芸の才に秀でた人で、新潟中学(現新潟大学の前身)の同窓で、後に著名な国文学者となった桜井天檀や会津八一と親交があり、浪外と号して俳諧を良くし、一時は地方文壇のリーダー的存在であったが、養子の身で遊学の志を果し得ず、鬱屈した心境のまま、郡役所の書記、後に十全村の助役を勤めて、戦後食糧難の時代に一生を終わっている。
 
 信吉の長男が私の父、独学で教員免許を取り、若くして台湾に渡った経緯は前に述べた。