前代表社員長崎真人自分史
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第一部】第十七話 追われる如く去る故郷台湾(
 
岸壁にまで見送ってくれた台湾の人たち
 4月1日、父母と姉妹・弟と私で6人の家族、それぞれにリュックを担いで、高雄港からこれが最後と言う引揚船に乗る事になった。
 アルミ会社で父と一緒に働いていた数名の台湾人社員と、時々家事手伝いに来てくれていた女性が埠頭まで見送りに来てくれ、船まで荷物を運んでくれたり、何かと面倒を見てくれた。
 こんな事は、ほかの外地では考えられない事のようだったが、台湾の人たちの本来の義理堅い民族性もあり、この頃になると国民党政府に対する当初の期待感が急速に薄れたこともあり、長年親しんだ日本人に対する郷愁に似た惜別の念を持ってくれたのであろう。父や母の手を握り幾度も「また来て下さいよ」と言ってくれた。
 
密航者第1号 台湾人同窓の非業の死
 台北高校七星寮最後の寮生大会で、感動的な名演説を聞かしてくれた、かの台湾人同窓(前回紹介)は、ずっと後に同窓の回顧録で知ったところによれば、病身の恩師を基隆港まで見送って来て、荷物を担ぎ先生を抱きかかえるようにして引揚船に乗り込み、そのまま姿を消してしまった。
 それが船倉に潜んで内地に至り、荷物に紛れて上陸。その間、何日間か殆ど食料を口にする事は出来なかったのではないかと思う。それに、上陸を果たしても、何処へ行くとも当てはなかったかと思う。 焼け野が原の日本を、何処でどうして生き抜いたのか、数年後、親しかったクラスメートの前にリュウとした背広姿で現れたそうだ。それが最後であった。次に伝わったニュースでは、交通事故で死んだと言う事だった。