前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第十話 血のメーデー そして神奈川へ(8)
 
 そして、ポツダム宣言に基づく全面講和を願う全国民的な運動にも拘わらず、東西対立の一方=中国・ソ連を排除して、米国主導の単独講和が強行された。
 重大な事は、講和締結と同時に押付けられた日米安全保障条約によって、米軍の占領政策が半永久的に継続され強化される事になったことだ。
 この両条約が発効したのが、1952年、この年4月28日。日本が今に至って、完全な独立を回復しえず、半植民地とも言うべき体制下で、帝国主義的な米国の世界戦略に従属させられている、その屈辱の歴史がこの時に始まったと言う事を、日本人は銘記したい。
 
戦後メーデーの歴史は「人民広場」と共に
 戦前のメーデーは、苛酷な絶対主義天皇制との戦いの歴史であった。その禁圧のもとで1935年以来10年間は、中断せざるを得なかった。
 戦後最初のメーデーは、1946年第17回メーデーとして復活。中央メーデーは、かっての天皇崇拝の聖域であった皇居前広場=「人民広場」を会場として開催された。その規模は、回を重ねるに従って大きくなり、1949年の第20回中央メーデーは最高の規模、参加者60万人に達した。しかし、前述のように朝鮮戦争下の占領政策により、この後の数年、「人民広場」の使用は禁止され、1952年、講和発効後最初のメーデーを迎えるに至った。