前代表社員長崎真人自分史
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第一部】第七話 新潟の田舎へひとり里子にやられて1年余/村松藩「長崎」の先祖(
 
「坊やのお父さんの名は?一緒の人はどういう人で、どこに行くの?何しに行くの?」など色々聞かれた。船室に戻ると伊部さんが心配そうに、どんな事を聞かれたのか、どう答えたのかと私に質した。それから彼も呼ばれて行って、同じような事情聴取を受けたらしかった。誘拐の疑いをもたれたのだろう。

 その時の旅中、子供ながらも私は緊張しきっていた。夜寝る時も自分の荷物から手を離さなかった。

 4昼夜かかって神戸に上陸した時、伊部さんもホッとしたのだろう。駅前の屋台に入って寿司をおごってくれた。自分は銚子一本とって飲み、私にもしきりに寿司を食えと言う。丁稚奉公を終えて故郷に帰る若い彼にしては、最高のおごりだっただろうと思う。ところが、私は彼がどんなに勧めても頑なに寿司ひとつ手を付けようとはしなかった。

 
美しく豊かな四季の移り変わりと細やかな人情に育まれてどうしてこんな旨いものを食べないのかと彼は不思議がった。

 その当時の教育と言うのは、私が学んだ旭小学校が特にそうだったのかも知れなかったが、今でもその顔が目に浮かぶ門間幸造と言う校長がいて、実に威厳に満ち溢れた神々しいような人であったが、事ある毎に「旭小学校は台湾で一番最初にできた伝統のある立派な小学校なのだ。君たちはその旭小学校の名誉を担っているのだ」と教えた。その言葉が、幼い私の全身に気高い誇りとなってみなぎっていた。誠に格調高い精神主義教育であった。

 私は、頭に頂いた帽子の旭小学校の徽章を強烈に意識していた。知らない土地に来て、屋台店で買い食いする事など(校則で外食一切禁じられていた)旭小学校の生徒の名誉にかけて断じてできなかった。村松に着いてからも私のこの態度は一貫していた。