前代表社員長崎真人自分史
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第一部】第七話 新潟の田舎へひとり里子にやられて1年余/村松藩「長崎」の先祖(
 
 一方、先生は私の「標準語」に大いに得心したようだった。台湾では、内地の色々な地方からの出身者が集まっていた事と、現地の人たちに正確な日本語教育をする必要があった所為だろうが、特定の方言は通用せず、比較的「標準語」に近い言葉が使われていた。内地の田舎では、ラジオもまだ普及していない時代だったから、情報化が進み共通語が全国どこでも聞かれる現代とは違って、先生だってズーズー弁から脱し得ないでいたので、私の会話は、まるで国語教育のモデルであるかのように珍重された。読本の朗読に加え、私の作文も度々読み上げさせられ、果ては「綴り方発表会」で全校生徒を前にした壇上に立たされた。
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 実は、台北の旭小学校での私の成績は、いつも甲が一つか二つ後は全部乙、アヒルの行列で、中の下の目立たない子だった。それが村松では、模範生にさせられ、甲がほとんど乙はわずか、席次も2番か3番と言うことになった。

 1年余経過した5年生の1学期が終わるころ母が迎えに来て、台湾に戻ることになった。

 不思議な体験だった。緊張した年月だったが、常夏の台湾にはない、四季の変化を伴った内地の風土と、雪国の深い人情に触れた事、合わせて、台北の旭小学校に戻ってからも私の成績は急上昇し、名門の台北一中から台北高校へとエリートコースを進む事になった事も、これが転機となったことで、その後の私の人生に与えた影響は大きかったと思う。