前代表社員長崎真人自分史
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第二部】第二話 引揚後の郷里での苦闘の日々(10)
 
 母と二人、母の実家の祖母の墓に参った。母は、戦時中音信が絶えていて、この祖母の死を知らなかったようだった。商家の末に生まれた母は、それこそ眼に入れても痛くないほどに、この祖母に愛されて育った。
 この祖母さえ生きていてくれたら・・・。墓石の前で嗚咽する母の後姿に、私は何も言えなかった。
町の大半を焼き尽くした大火
 引揚後ひと月も経たない5月8日、村松は大火に遭った。下町の料亭から出たと言う火は、瞬時に町の中心部を巨大な炎の渦と化し、逃げ惑う人々を追って燃え広がり、手の施しようはなく、ようやく火勢が止まったのは街外れ、辛うじて、墓地や空き地が多い住宅地での破壊消防によってだった。
 
 この季節、裏日本に多く発生するフェーン現象で、古い木造ばかりの城下町は乾燥しきっていたのであろう。私は、下町の箪笥屋(母の兄の店)に駆けつけ、商品の箪笥をひと竿、土蔵に担ぎこんだのがやっとだったが、その土蔵も跡形もなく焼け落ちた。
 頼りにしていた母方の親戚のほとんどが、この大火で身一つの焼け出されとなってしまった。
肥タゴ担いで山の畑を開墾
 父は、福島県の開拓地に入植する事を真剣に検討していたようだったが、長男の立場、年老いた祖父母を置いては、そうする事も出来なかった。
 間もなく町から、旧軍隊の錬兵場の跡地を分配され、私を助手にして、その石ころだらけの荒地と毎日格闘し始めた。