前代表社員長崎真人自分史
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第二部】第二話 引揚後の郷里での苦闘の日々(10)
 
「ニシンなじだね」母と在郷廻りの行商
 母は、親戚から乾物を卸して貰って、田舎廻りの行商を始めた。担ぎ籠に、僅かな商品を背負って、「ニシンなじだね(どうですか)。筍と煮ると旨いおいね。」などと農家の庭先に声をかけて歩くのである。父の畑仕事の合間には、私も籠を担いで母について歩いた。

 誰から教わったのか「山タバコ」の葉を採ってきて、一家中で、蒸したり刻んだり、紙に巻いて、それを新津の駅頭で売る事さえした。「山タバコ」とは言っても、葉の形がタバコに似ていると言うだけで、出来上がった「巻タバコ」は、とてもまずくて吸えたしろものではなかった。良くもまあ、そんな事までしたものだと今にして思うのだが、ただ、必死の生き様であった。
 
新潟高校に転入学を拒否さる
 そんな中で私は、新潟高校への転入学の手続きを取った。私の台北高校卒業の資格は、戦時短縮の2年終了だった。それも実際には、途中兵隊に取られ、正味1年余の勉学に過ぎなかった。それが、内地に引揚げてみれば、旧制高校本来の3年制に戻っていて、もう1年高校で勉強しなければ役に立たなくなっていた。
 呼び出しを受けて行って見ると、志望者は私一人だった。
 新潟高校は、空襲の被害もなかったようで、如何にも歴史を経た旧制高校らしく古色を感じる木造の校舎だった。明治調の渋い赤煉瓦の立派な建物だった台北高校とは比べ物にならない寂しさだった。