前代表社員長崎真人自分史
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第二部】第六話 「君は共産党員ではないか」にビックリ()
 
兄と二人三脚で労組活動
 私を農事試験場に呼んでくれ、唯物弁証法読本を読ませてくれたのも、四つ違いの兄だった。お蔭で私は自分の生きる道を見出す事ができたのであったが、1年たつと私の方が前を歩いていました。
 幸い、農林省には戦前からの隠れた伝統があったようで、間もなく福島要一や畑村又好など有力メンバーの手で滝野川の本場に、民主主義科学者協会(民科)が結成され、そこから鴻巣にも働きかけがあって、幹部級の研究員たちの中に加入者が増え始めていました。兄もその一人でした。これらの人達のバックアップがあって、私のような若手の活動も浮き上がらずに進んだのだと思います。
 
兄が労組の委員長、弟が事務局長
 労働組合の役員選挙で、兄が一位、私が二位でした。兄は分会の執行委員長で全農林埼玉地区協の議長をつとめ、私は分会の青年部長に続いて事務局長に任ぜられ、やがて試験地の建物の一部屋を労組の事務室用に獲得し、私は研究室を離れてそこに専従し、労組活動に明け暮れるようになりました。
 盛んなサークル活動もあり、民科もあり、労組専従としての行動の自由もありましたので、青共の活動も公然と進めることができました。
 青共員は1年余で30名近くになり、青年部の中では青共員でなければ肩身が狭い程の勢いでした。