前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第三話 激動の情勢下で()
 
「社共合同」方針の誤りを青年戦線に押付け

 この年1月はじめ、日本青年共産同盟の全国グループ会議が開催され、私も参加しました。グループ会議と言うのは、党外の大衆団体の中で活動する党員が、党員としての立場で意思統一を図る必要がある時に開催されます。
 青共の全国グループを召集し指導に当たったのは、共産党本部の青年対策部(部長西沢隆二・ペンネームひろしぬやま)。会場は、記憶が定かではないのですが、文京か豊島かそのあたりの公会堂だったと思います。出席者は、その公会堂の結構広い会場を埋め尽くしていましたので数百名だったと思います。
 
 この会議の席上、誠に唐突に、青共を解散し、民主主義学生同盟(民学同)、全日本民主青年同盟(全民青)、日本民主主義青年同盟(民青同)と合同する案が提案されました。 私は、青共本部に来て半年ばかり、指導的な地位にはない一部員に過ぎませんでしたから、事情が全くわからなかったのは無理もなかったかと思いますが、それにしても事前には何の説明もない事でした。
 全国グループ会議に参加するため地方から出てきた同志たちは、一斉に立ち上がって激しく反対意見を吐露しました。いずれも二十歳前後の若い同志たち、その熱烈で堂々たる弁舌に、私は目を丸くしていました。
 恐らく、この形勢で決を採れば提案は否決されたでしょう。にも拘らず、提案者の西沢隆二は、口角泡を飛ばして提案に固執し、最後には「ともかく俺に任してくれ」と言い残して楽屋に去ってしまった。