前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第三話 激動の情勢下で()
 
頭だけの合同で組織は大混乱
 間もなく「民主青年合同委員会」が結成され、本部は、御茶ノ水に近いビルの2階に移りました。立派なビルでしたが、青共の幹部の殆どは、別に青年戦線統一を目指して結成された「日本青年会議」に移り、新しい本部ビルに座ったのは、馴染みのない全民青や民青同の幹部。一時は、社会主義青年同盟(社青同・社会党系)も合流するかのような姿勢を見せましたが、数ヵ月後、「合同委員会」から単一組織に移行すること、名称も「日本民主青年団準備会」に改称する事を決定する段階で、会議の席を蹴って退場していきました。

 結果としてもたらされたのは、組織的な大混乱。戦後急速に拡大した青年共産同盟の組織は、総崩れと言ってよいほど、一挙に破壊されてしまいました。
 
 青年共産同盟の伝統と使命に誇りを持っていた多くの同盟員が、この時期に一斉に組織から離れていきました。
歴史的な誤りの原因
 この青共解散・合同委員会結成の方針は、青年運動の歴史に汚点を残す重大な誤りだったと私は考えます。
 基本的な誤りの第一は、統一戦線と単一青年組織の役割の混同だと思います。
 その背景には、党中央の一部で推進された「社共合同」路線の誤りがありました。この前年の暮、総選挙直前に、青森、岩手、福島、栃木、長野、香川等の各地で相次ぎ、「社共合同」大会が開かれていました。この同じ路線が、機械的に青年戦線に持ち込まれたのです。