前代表社員長崎真人自分史
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第二部】第八話 研究室を出て未知の世界へ()
 
 鴻巣試験地を去る事を決めていたこの時期、私は、戦後史に残る労働争議・東宝砧撮影所のストライキの現場を直接体験した。
 東宝は、戦後間もなくから、芸術の薫り高い反戦映画の傑作を次々に生み出していた。その拠点となっていた砧撮影所の閉鎖を策して、占領当局むき出しの干渉が加えられ、これに抗して、映画界・労働界挙げての戦いが展開された。  
 私が応援に行った二週間後、「来なかったのは軍艦だけ」と報道されたように、米軍の戦車・ヘリコプターまでが出動し、総動員された数千の武装警官隊による大暴圧が加えられた。
 
 スクラムを組み流れる涙を拭いもせず、撮影所を出て行く、岸旗江、沼崎勲、若山セツ子、木村功等、一世を風靡したスター達の姿をニュース映画で見て、影響を受けた若者は少なくなかっただろう。
 米軍がその武力を行使して、一民間企業の争議に介入したのは、これを嚆矢とする。これは、チャップリンまで国外追放になったアメリカ映画界の赤狩り旋風に呼応するもので、この後、官公庁から民間企業まで、全国的に吹き荒れたシッドパージのさきがけとなるものだった。
 この時の感情の高まりが、私に上記の文章を書かせたのだった。