前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第四話 史上空前・国電ストの第一線に()
 
 私は、山手線を一周する電車の中で、ひと車両ごとに演説しては、乗客に薦めて歩いた。昼間の比較的車両が空いた時間帯を選んでやった。その方が話がし易かった。ひと車両で2・3冊は売れ、山手線一周する間には4・50冊にもなった。時には、バスの中でもやったが、バスは狭くて動き難かった。

 1年後、「鉄道公安」と言う国鉄専門の警察ができて、国鉄管内での物品販売は全面禁止になった。明らかに我々の宣伝活動を抑えるためのものだった。
 中野地区にオルグとして派遣されて以来、給料は、本部からも都委員会からも出ず、完全に自弁だったので、1冊3円の還元金が有難い生活費・活動費になった。
 
失対労働者の「餅代よこせ」込みに干渉に来た警官隊を撃退
 当時、失業者が巷に溢れていた。戦災で家も職場も失った人たち、身一つで外地から帰ってきた引揚者・帰還兵、軍需工場から吐き出された人々、加えて横行した企業整備・人員整理。
 これらの犠牲者の救済策として「失対」と呼ばれた失業対策事業が、政府と自治体で実施されていた。道路や公園、防空壕や戦災の跡等の整理清掃が主たる仕事で、「ニコヨン」と言って1日240円の日当が支払われた。超インフレの時代でもあり、とても生活費を賄うには追いつかなかった。