前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第十三話 日本代表としてモスクワへ
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 帰国後、私はこの事をいくつかの新聞に投書した。幸い、朝日とアカハタが記事にしてくれた。
 アカハタは、わざわざ若い記者が取材に来て、3面記事のトップに私の写真入で大きく取り上げてくれた。取り上げてくれたのは結構なのだが、私を「印刷工」とし民青の県委員長とは紹介しなかった。記事も如何にも3面記事的な興味本位の書き方で、何の意味でこんなに大きく取り上げたのか判らなかった。
 朝日は、やはり3面の下のほうに囲みで、私の投書を簡略に「人探し」としてのせてくれた。

 マスコミの威力と言うべきだろう。30通ほどの手紙が来た。いずれも、彼女を懐かしがり、是非行方を尋ね当てて知らせて欲しい、私が知る限りの情報はこうだと言うものだった。彼女と同じ旅順の女学校の同級生だった人、親類に当たる人からの情報をたどって、3月ほどして所在が判明した。
 私は、早速、彼女宛に、モスクワでの話をできるだけ忠実に伝える手紙を出した。間もなくその返事が来た。
 
 その手紙は、涙なしには読めなかった。

 終戦後の大連での話は良く覚えていて、彼女も、そのロシア夫人(レスニコーバさんと言う)の温かい人柄が今も忘れられず、もしできることなら、すぐにでも飛んで行って会いたい。夫人の胸に顔を埋めて泣きたい。だが今の私には、それができない。
 その手紙には、引揚後、彼女が体験せざるをえなかった過酷な運命、幾度も過去を断ち切って生きてきた身の上、誰にも打ち明けられなかった事だが、ロシア夫人との暖かい交情を思い出し、あなたにはお話したい気持ちになったと言う、その間の事情が、細かく綺麗な字で綴ってあった。
 どうぞ、レスニコーバさんには、あなたから良しなにお伝え下さい。そしてどうぞこの手紙の事は、他の誰にも知らせないで下さいと結んであった。

 青森の米軍三沢基地の近くに彼女は名前を変えて住んでいた。私よりひとつ年下だった。