前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第九話 弾圧に抗し青年新聞を守る(810)
 
単独講和締結の機会を捉えて

 1951年は、屈辱のサンフランシスコ「平和条約」と日米安全保障条約が締結された年。占領下にありながらも、日本人民が全力を尽くして要求したポツダム宣言の完全実施・「全面講和」はならず、今に至る日本の半植民地化、アメリカ帝国主義の単独支配の根拠がこの時に形作られた。
 一方、朝鮮戦争が膠着状態になり休戦会談が開始されるに至った事、併せて曲がりなりにも講和条約が成立して、形の上では占領軍の全面的な支配が終わり、日本政府にある程度の政治の実権が移された事は、新しい前進の局面を開く事になった。
 
 1952年4月講和条約発効。5月1日「アカハタ」復刊。そして後述のメーデー事件が起きることになるのだが、「若き戦士」の創刊は、これより早いその年の1月だった。

 当時の民青団がどれ程の実組織を保っていたか、さだかではないが、私が機関紙活動を通じて把握していた範囲は、十指に足りない府県だった。
 本部書記局は、書記長のH.A、書記のE.A、それに私の3人だけ。書記局会議には都委員長のYが時折参加していた程度で、辛うじて組織を保っていた。
 事務所に使っていたのは、目白から線路際を池袋方向に歩いて5分ほどの民家だった。