前代表社員長崎真人自分史
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第三部】第九話 弾圧に抗し青年新聞を守る(810)
 

 この時まで、半非公然で発行を続けていた「民主青年新聞」の後継紙も残念ながら、財政的にも続かなくなっていた。
 私は、書記局会議で中央機関紙の再刊を是非やりたいと強力に主張して、承認を取り付けた。実際にやれる手は私以外にない。幸い、私が都内で何度か招集した機関紙担当者会議に参加してくれた学生の同志で、数名が援助してくれる事になった。財政的な基盤もなかったので、ガリ版刷りにし用紙は実物カンパで集めた。
 
  名称の「若き戦士」は、民青団発足当時に団内報として発行した「プロレタリアの若き戦士」が中断していたのを略して使うことにした。

 私は、その年の6月には神奈川県に派遣されることになったので、「若き戦士」に携わったのは半年間に過ぎないのだが、「若き戦士」創刊は私の一生において、誇りに思う忘れ難い思い出だ。
 「若き戦士」は2年後1954年に活版化され、以後2年余中央機関紙として使命を果たし、1956年民主青年同盟中央機関紙「民主青年新聞」にバトンタッチし、現在に至っている。