前代表社員長崎真人自分史
目次へ 前のページへ 次のページへ
第三部】第十五話 悪戦苦闘!職業転々の数年 わが人生最高の体験記
1011121314151617)
 
 それまで、私達青年運動に携わる者が、悔しい想いを重ねてきた第一は、党機関の無理解だった。「何時まで民青などやってんだ」「民青辞めて党機関に来ないか」などと言って、幹部・活動家を引っこ抜く工作は日常だった。「賽の河原の石積み」と言ってよかった。党機関は、青年組織を利用すると言う見地はあっても、育てる意識はほとんどなかったと言ってよかった。
 左翼冒険主義と結びついた極度の中央集権、特に人事の専断は破壊的だった。
 それが、綱領討議と並行して、青年運動の重要性を認め、援助を惜しまない方針を党中央が出すに至った事は、涙が出るほど嬉しい事だった。こうでなくてはならぬ。これでこそ信頼すべき党だ。
 「未来は青年のもの」青年こそ未来の担い手なのだ。
 
 神奈川県でも県党の肝いりで、青年組織再建の努力が功を奏し、「日本民主青年同盟設立神奈川県大会」が開催される運びとなった。集まった代議員は50名ほどと記憶する。
 その準備委員会の心配りで、この記念すべき大会に私も参加させて頂いた。
 来賓は私一人だった。青年運動を離れて、すでに数年を経過し、32歳になっていた私は、しどろもどろ何を言ったか記憶にない、冷や汗ぐっしょりの挨拶をしたが、同志たちは満場の拍手で応じてくれた。
 その席で、諸君が寄書きをし贈ってくれた「青旗」が、幾星霜を経て私の宝物として今も私の手許にある。